徒然雑記



お客さんと仲良くなる方法

私が以前勤めていた会社、X社では
新入社員を小田原と神戸の研修所に集めて数週間の研修を行っていた。

小田原に行った私は東日本各地から集まった多くの同年の方と知り合いになれたが
地域によってこんなに言葉の違いがあるのかと驚いた。
話しは通じるのだが、微妙にイントネーションが違ったりして面白い。
特に秋田県や栃木県の人との会話は新鮮そのものだった。
純朴というか、とにかく心が癒される。

外資系の会社であったせいか先生とか生徒とは呼ばず。
教えてくれる人をトレーナーといい
学ぶ人の事をトレーニ―と呼んでいた。
今思い出すとルー大柴入っていて少々おかしな気もする。
新人研修が終わった後も技術研修など定期的に研修は行われた。

私はいつもトレーナーに
「学生気分が抜けてないな〜、君は私に友達のように話すが、それは直さなければいけないよ」
とよく注意されていた。
私は、
「トレーナー、多分方言のせいですがね」と口答えをしていたが

一人前のSE(サービスエンジニア)になる為のカリキュラムの中でお客さんと仲良くなる方法というのがあった。
どうすればお客さんと仲良くなれるか考えましょうというものだったが
「息抜きの授業か〜こんなトロいカリキュラムはやってられないな〜」
とも思いながらも色々な案が出た。

礼儀正しく接する事とか...
迅速に対応するとか...

最終的にトレーナーの締めのお言葉で

礼儀正しく接する事も重要だし、迅速に対応するという事も重要だ。
でも、もっと重要な事がある、それは
「その土地に根付いている言葉を覚えて話しなさい」という事だった。
つまり、「方言を使って話しなさい」という事であった。

これはちょっと意外だった。
会社に入ったら方言は直されるものだと思っていたが、その逆だった。

会社の方針なのか、そのトレーナー個人の経験や考えなのか今ではわからないが
トレーナーはこんな事を言っていた。

君達はやがて希望地への配属が決まったら現場に出る事になる。
現場に出た君達は方言を覚えなさい、そして方言をどんどん使いなさい。
その土地の言葉を覚えてその土地の人と仲良くなりなさい。
方言を話す事によりその土地の人になりきりなさい。
というものだった。

確かに標準語で話すより、その土地の言葉で話せば言葉がやわらかくなる。
顧客との会話の中で方言を多用すれば事務的な標準語で話すより
私という1個人にも興味を持ってくれる事にもなるだろう。


好きで入った会社だったが、その会社が益々好きになった。

今はもう辞めてしまったが、今でもその会社の為に何かしてあげたいと思う事がある。
例えば、その会社の株を買ってあげたいとも思うのだが、残念ながら上場していない
っていうか潤沢な資金があるせいか上場する必要もないそうな。


さて、私が住んでいる愛知県には大きく分けて2タイプの方言がある。
まず、名古屋弁、そして三河弁だ。

名古屋弁については、テレビでおなじみの代議士「河村たかし」さんの話しを聞いてればよくわかる。
「そーりだゃーじんになったるがや」はコテコテの名古屋弁だ。
あのイントネーションは一度聞いたら忘れられない。

三河弁でも岡崎豊田などを中心とする西三河と豊橋豊川を中心とする東三河では少々違いがある。
例えば標準語で「あるでしょう」は
西三河では「あるだらー」
東三河では「あるらー」になる。
もっと東に行って静岡あたりまで行くと「あるずらー」になる。
ちょっと面白い。

また、三河弁では他の地域では使わないであろう「りん」を言葉の語尾に多用する。
例えば「食べりん」とか「見りん」とか「はよやりん」とか
女性が他の地域でこの「りん」を使うと、それなに〜、可愛いね〜と受けがいいそうな。

若い人はあまり使わないのだが、戦前戦中産まれぐらいの尾張名古屋人は
訪問先からの帰りの挨拶に「ご無礼しました」という言葉をよく使う。
他の地域ではあまりこのような挨拶の習慣はないようだ。

ところが、九州の肥後熊本では訪問先からの帰りの挨拶に「ご無礼しもした」と言うようだ。

これは恐らく約400年前、尾張出身の加藤清正公が熊本に領地を移された際
名古屋ことばの「ご無礼しました」を現地の人に多用し
清正公を慕った現地の人が真似て、現地の方言と混ざり合って「ご無礼しもした」になったかもしれない(笑)

また、九州の天草の辺りに配属になった友人が、
お客さんの所へ呼ばれて行ったら、とにかく何か言われたのだが、聞き取れなくて
取りあえず「はいはい」と首を縦に振っていたら、いきなり焼酎が出てきたとか

全く言葉が聞き取れなくて方言を覚えようにも覚えれないと言っていたが
3ヶ月そこにいたら、会話できるようになってきたと言っていた(笑)


方言って面白い。
その土地々々で培われて来た文化やその土地の人々の人間性が凝縮されているようにも感じる。
もし方言がなければ、どんなに味気なくつまらない日常だろうとも思う。

経済を発展させる事も重要だが、効率を求めるあまり、
あまりにも均一化された社会になると、お金とか物とかでしか
その豊かさを基準にするものがなくなってしまうような気がして、
でも本当の豊かさとはそんなものではないような気がする。

本当に豊かなこととは
「山が山である事、川が川である事、緑豊かな照葉樹林や鎮守の森や、青く澄んだ川をもつその土地で独自に培われて来た生活や方言がしっかり受け継がれていく事」であると思う。

間違っても
「山が宅地に、川が下水になってはならないのである」

生活が変化し、都市に人口が集中しても、
方言がさげすまれたり、田舎扱いされたり
なくならないような世の中にしてもらいたいものである。


徒然書 2007/9/9 AQ
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